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常足庵備忘録

曹洞宗常足庵住職の備忘録です

荒神真言

総持寺朝課のYouTube見てると荒神諷経というのが、あのカッコいい大般若の中で出てきます。

荒神真言は短い真言なんですが、では意味は何でしょう?

経本には

唵剣婆耶剣婆耶 吽婆多 オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ウンバッタ・ソワカ

梵文では

Oṃ khaṃ vāya khaṃ vāya hūṃ phaṭ svāhā.

和訳では

おお、かまどは乾かし濡らすなよ。フーン・ハッタ(叱咤降伏の声)めでたし。

だそうです。めでたしめでたし 悪しからず。

最古の経典?スッタ・ニパータの漢語経をお勤め用に意訳してみたのでメモっときます。

佛説義足經卷  呉月支優婆塞支謙譯

 

六、老い

是身命甚短 減百年亦死 雖有過百年 老從何離死 

坐可意生憂 有愛從得常 愛憎悉當別 見是莫樂家 

死海無所不漂 宿所貪愛有我 慧願觀諦計是 是無我我無是

是世樂如見夢 有識寤亦何見 有貪世悉亦爾 識轉滅亦何見 

聞是彼悉已去 善亦惡今不見 悉捨世到何所 識神去但名在 

既悲憂轉相嫉 復不捨貪著愛 尊故斷愛棄可 遠恐怖見安處

比丘諦莫妄念 欲可遠身且壞 欲行止意觀意 已垂諦無止處 

無止者亦尊行 愛不愛亦嫉行 在悲憂亦嫉行 無濡沾如蓮華

已不著亦不望 見聞邪吾不愛 亦不從求解脱 不汚婬亦何貪

不相貪如蓮華 生在水水不汚 尊及世亦爾行 所聞見如未生

 

自分読経用にメモった適当な勝手訳ですので悪しからず。

六、老い

 

是身命甚短 減百年亦死 雖有過百年 老從何離死

この命はとても短い、百年ほどで死んでしまう。

百歳を超えたとしても、老いて皆死に別れる。

 

坐可意生憂 有愛從得常 愛憎悉當別 見是莫樂家 

意に可なうようにとすれば憂いが生まれる、愛執が有れば変わってほしくないとするからである。

愛するものとも憎いものともすべて別れるものであると見て、家に在って楽を求めてはならない。

 

死海無所不漂 宿所貪愛有我 慧願觀諦計是 是無我我無是

私のものであると貪り愛執したところで、死の海に漂わないところはない(死によって失われてしまう)。

これは私のものではない、これは私ではない、とこれらを智慧で観て諦めなさい。

 

是世樂如見夢 有識寤亦何見 有貪世悉亦爾 識轉滅亦何見 

世の楽とは夢で見るようなものである、眠りから覚めて何か見れるものが有ろうか。

世の愛貪もまたそのようなものである、滅することを識ってしまえば何が見れるものか。

 

聞是彼悉已去 善亦惡今不見 悉捨世到何所 識神去但名在 

聞いたことのある人も皆去って逝くものである、善も悪も今となっては見ることも出来ない。

悉く世を捨て何処へ行ったのやら、ただ去って識られるのは名前ばかり在るだけである。



既悲憂轉相嫉 復不捨貪著愛 尊故斷愛棄可 遠恐怖見安處

また、貪りや愛著を捨てなければ、嫉妬が転じて憂いや悲しみとなるのである。

ゆえに尊者らは愛執を断ち捨てて、恐れから遠のいた安穏な処を見たのである。

 

比丘諦莫妄念 欲可遠身且壞 欲行止意觀意 已垂諦無止處

比丘らよ、この身は壊れるものだと諦めて、貪欲から遠ざかり妄想するなかれ、

貪欲による行いを止めて、意によって意を観てとどまる処の無いことを諦め終わりなさい。

 

無止者亦尊行 愛不愛亦嫉行 在悲憂亦嫉行 無濡沾如蓮華

尊者はとどまることの無く行くものである、愛するものも愛さぬものも、憎むものも悲しみ憂いまた嫉妬することも、蓮の葉の雫の如く無くなるのである。

 

已不著亦不望 見聞邪吾不愛 亦不從求解脱 不汚婬亦何貪

すでに、見たり聞いたりしたことに邪な我見や愛憎をつくったり、執着したり願望しない。

また、解脱を求めることに執着しないのだから、汚物淫行何物にも貪りが無い。

(この偈は大乗思想のようにも取れますが、前章である『最上の章』より受けたものだと解釈しています)

 

不相貪如蓮華 生在水水不汚 尊及世亦爾行 所聞見如未生

水中に在っても水に汚されない蓮の葉の如くに、あらゆる相に貪りがない。

尊者は世においてこのように、見るもの聞くものになにものをも生じないのである。

仏性って、意識って、わかんないから関係無い、ではもったいないッス

「仏性とは意識のことですね」と坐禅中に思ってしまったので備忘録に。

道元禅師の言われた『人人皆備われり』、『未だ修せずんば現れず』とは、意識は誰でも備わっていますよね、それどころか自分そのものです、だから主、あるいは主人公といわれてます、それで意識で脳を制御しなさいと、本能つまり煩悩を支配しなさいということです」

「脳は遺伝子で初期設定されて環境でアップデートするような物質的なものです、タンパク質で構成されて電気パルスと化学物質の変化で動いています」

「対して、意識はどこから発生するのか、何をエネルギーにしているのか等、科学的なことは何も解明されていませんが、私にも他人にも環境にも過去にも未来にもそして現在にもすべてに影響を与えるづけていることだけは反論の余地のない事実です」

「しかし、普段は無意識に行動しており、意識は説明や自我の確保のために使用している、というのが大部分を占めています」

「実際、自分がルーチンワークなどで自動運転している様を観察すると、環境で備わった手続き記憶や生まれつき備わっている本能的な行動で意識の関与無しに行動出来ている事がわかります」

「また、意識が真に必要とされ真価を発揮するのは、新たな判断や過去の習慣や反応に反する必要のある時だと実感することもよくあります」

「初めて火を使い出した人類は『ファラデーのロウソクの科学』は読んでなかったはずですが火を使って生活を変えました。また、火を使う事で脳を進化させたのも事実です」

「同じように、科学的に何一つ解らない意識が、脳から発生する創発現象でも、内なる霊的な存在でも、神や偉大な何者かに与えられたあるいはその一部でもなんでもいいです、ただ、既に備わっている意識を上手に使うことです」

「限定されることの出来ない意識は、無限の広がりと可能性を持っていると言っても言い過ぎではないでしょう」

「時に、悩み苦しむ時に何か心の奥底で腹立たしく思うのは、意識を持っていても使いこなせていない、過去の習慣に無条件に疑いなく従い、憂い悲しみのループの中で意識を浪費しているのが感じられるからではないでしょうか?」

「意識で脳が変わります、身体も変わります、環境も変わります、現在はもちろん未来も変わります、すべて因果関係から免れるものはありません、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意です」

「意識は無限ですが、しかし、この身体の時間は有限です、光陰虚しく過ごすことなかれです」

「余談ですが『主人公!』『ハイ!』『主人公!』『ハイ!」と自問自答し続けた禅僧の話も有名です」

「話は飛びますが、意識が私とすれば有るとか無いとか言えなくなります、死ぬとか生まれるとかも限定できなくなります、不安、恐れが生まれる必要もないでしょうし執着出来ない現象であるとも思えてきます」

で、結局のところ話をまとめるとこうなるだけです(笑)

意識が仏性だと言われたら、スゲ~オレ持ってんじゃん!あとテクニックと根性だけってマジかよ〜ちょっと修行してくる!ってなるよね。

仏さまに手を合わせるときに考えること

お仏壇の御本尊に手を合わせる時に、ただ習慣でしていたり、なんだかわからないけど利益ありそうだから、というような感じの方も居られるかと思います。

せっかくのお仏壇と御本尊ですから、ひとつ「敬い」という気持ちを作ってみてはどうでしょうか?

この「敬いを念じる」というのは「私が私が・・」という自我の慢が減っていく修行でもあります。

実際に、「敬う」という心を数分でも保ち続ければ心が静かに軽くなるのが実感できます。

この実感は慢心を遮断するという行為に随って得られる功徳みたいなものです。

お金も道具も準備も時間もかかりません、仏道修行のいいところです。

ただ「敬う」には一分の疑い(例えば「そうはいっても矛盾したとこがあるからいまいちなんだよね」や「でも、つくり話でしょ?」みたいな)も邪魔になるので、対象が完全無欠の人格や理論でないと出来ないこともあります。

まあ、カルトのように洗脳されて邪信になったり、アイドルのようにただ漫然と感情で入れ込んだりしても出来ないことはありません。

しかし、仏教徒が何千年も調べて精査した事柄を使った方が失敗の心配が無いといえます。

禅宗では仏の徳を念じる時に「如来十号」という偈を唱えますので、次に伝統的な仏法僧の念じ方を紹介します。

仏徳を念じて敬いの心を作ってみます。

南無帰依仏」と唱えながら

は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明行具足であり、善逝であり、世間解であり、無上調御丈夫であり、天人師であり、である、世尊である」と念じます。

南無帰依法」と唱えながら

「法は、かれ、るものであり、非時のものであり、るものであり、くものであり、各自自覚するものである」と念じます。

南無帰依僧」と唱えながら

「僧は、善行であり、質直行者であり、如理行者であり、四双八輩であり和敬行者であり、応請にかなうであり、供奉にかなうであり、応施にあたいするであり、応合掌すべきであり、無上福田者である」と念じます。

各称号の言葉の意味はここに詳しいので参考にしてください。

仏法僧(三宝)の徳の偈文

http://www.j-theravada.net/sutta/butsu-hou-toku2.html

意味がつかめたら次のように偈文を唱えるのもよいです。

南無帰依仏、阿羅漢、正等覚者、明行具足、善逝、世間解、無上調御丈夫、天人師、佛、世尊

南無帰依法、善説、自見、非時、来見、引導、各自自覚

 

南無帰依僧、善行者、質直行者、如理行者、四双八輩和敬行者、応請者、供奉者、応施者、応合掌者、無上福田者

あるいは、お釈迦さま在世の時と同じようにお唱えしたいと思ったらパーリ語でお唱えすることも可能です。

一般の我々がしっかり意味を把握してパーリ語でお唱えできるのは日本の仏教歴史の中で極々最近のことなんです。

100年前に生まれてたら叶わなかったような事です。

そういう点でも、続いて届いた「法」にも、続けてくれた届けてくれた「僧」にも感謝して敬うことが出来ると思っています。

では下記参照で。

仏法僧(三宝)の徳の偈文

http://www.j-theravada.net/sutta/butsu-hou-toku2.html

八句回向

施餓鬼に読みます曹洞宗の「甘露門」や、臨済宗で読まれる「開甘露門」の回向偈です。

八句回向

以此修行衆善根 報答父母劬労徳 存者福楽寿無窮 亡者離苦生安養

四恩三有諸含識 三途八難苦衆生 俱蒙悔過洗瑕疵 尽出輪廻生浄土

この皆の修行の善業をもって、父母苦労の徳に報います

生きている者が幸福で長寿でありますように

亡き者が苦しみから離れ安らかなところに生まれますように

四恩を受けているもの、三有のすべての心ある生命、三悪道に住むもの、八難の苦しみにある衆生

共に懺悔して傷を洗い流し、みな輪廻を脱して浄土に生まれますように(苦しみの無い安楽の境地に到りますように)

出典不明のようですが、功徳力の因果と禅浄一致の思想が混じって当時を思わせる味わいのあるものですね。

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼メモ

大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼

お葬式の各節目や施餓鬼の時に唱える陀羅尼です。

真言陀羅尼 坂内龍雄著 平河出版  と U-Tube から書き出しましたのでメモしておきます。

根本陀羅尼品第二

根本陀羅尼(mūli dhāraṇi)

Namah sarva tathāgatānām, Oṃ vipula-garabhe, maṇi-prabhe, tathāgata-nidars'ane, maṇi maṇi suprabhe vimale sāgara-gambhīre, hūm hūm, jvale jvale, buddha vilokite guhya-adhisṭhita garabhe svāhā.

一切如来に稽首帰命し奉る、おお、広博蔵に、宝珠光に、如来の教示に、宝珠よ、宝珠よ、

妙光よ、無垢に、海の如き深妙に、フーン、フーン。放光よ。放光よ、諸仏の観照に、秘密加持蔵に、めでたし。

心及随心陀羅尼品第三

心陀羅尼(hrd dhāraṇi)

Oṃ mani-vajre hūm.

おお、宝珠金剛尊よ、フーン。

随心陀羅尼(utpala dhāraṇi)

Om mani dhare hūm phat.

おお、宝珠(智慧)を持つ尊よ、大力もて魔障摧破したまえ。

周梨槃特の掃除

周梨槃特(チューラパンタカ)

私のいた修行僧堂には「プロの掃除エキスパート」みたいな、クリーニングアイテム満載の千手?周梨槃特の木像がありました。

作務が修行の禅宗らしい感じがしますが、周梨槃特は特に掃除が得意だったわけではないのです。

初期禅宗でも言われているように掃除ばかりしてたら「怠けずに修行しなさい」と叱られるのが仏教です。

ということで、ちょっと周梨槃特メモ書いておきますね。

周梨槃特は金持ちの商人の娘が、家の召使と駆け落ちして生まれた子供と言われています。路上で生まれた兄はマハーパンタカ(大路の子)次の子がチューラパンタカ(小路の子)と名づけられました。

成長したのち、兄のマハーパンタカが出家し阿羅漢果を得たことにより、弟のチューラパンタカも後を慕って出家し、懸命に頑張りましたが、彼はごく短い偈さえも四か月たっても覚えられず、兄のマハーパンタカも還俗させることを考えたそうです。

その偈は

「よき香りの紅蓮コーカナダは 朝に花咲き、香りが失せず。見よ、そのように輝かくアンギーラサを、空に輝く太陽の如し」です。

『Padumaṃ yathā kokanadaṃ sugandhaṃ, pāto siyā phullam avītagandhaṃ.

 Añgīrasaṃ passa virocamānaṃ , tapantam ādiccam iv' antalikkhe'. ti"』

さて、それを知った仏は白い純白の布をチューラパンタカに手渡し、

「チューラパンタカよ、「塵を除く、塵を除く」『rajyoharaṇṃ rajyoharaṇan』と唱えながらこの布で拭き掃除をしなさい」と命じました。

彼は手中の布の汚れ行くのを観じて無常を悟ったと言われています。

その時、チューラパンタカの悟りを神通で知った仏の唱えられた言葉が次の法句25偈ということです。

『奮起によって務めによって、自制によって調御によって、暴流さえも流されない島を賢者は作りうる』

渇愛や邪見、無智という暴流)

道元禅師はこれを「中々世智弁聡明なるよりも鈍根なるようにて切なる志を発する人、速やかに悟りを得るなり。如来在世の周梨槃特のごときは、一偈を読誦することも難かりしかども根性切なるによりて一夏に証を取りき。只今ばかりが我が命は存ずるなり。死なざる先に悟りを得んと切に思ふて仏法を学せんに、一人も得ざるはあるべからざるなり」(正法眼蔵随聞記二―20)と語られました。無常迅速の教えですね。

「塵垢の除去」と言うと、神秀の「時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」を思い出してしまいますが、重ねてしまうと、周梨槃特はなんだか漸悟修行で頓悟しちゃったみたいな・・(笑)