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常足庵備忘録

曹洞宗常足庵住職の備忘録です

私が無くても歩いとるだろう?と仰いますが

「私が無くても歩いとるだろう?、私、私といわんでも食べとるだろうに?、息をするとき私は・・・と思ってないだろう?」、と日常が無我そのものであることを表現されることがあります。

 そういわれても、「意識してるか無意識でやってるかの差でしょう?」と反論したくなりますよね。

 そのギャップを埋める為には、歩いている、食べている等、行動の集大成?をもっと分解して構成要素の1つの事象に注意する必要が在ります。

 例えば、歩いているならば,足の感覚に、食べているなら、噛む動きや味、等と細分化して一転集中する必要があるのです。

 なぜなら、冒頭の言葉は坐禅の修行で気づきを得た方々の言葉で、頭で考えたり本を読んだりして得た知識では無いからです。

 さて、ここで理屈を説明します、事実から妄想へと進んでいく過程です。

1・例えばいま、眼と見る対象があります(見る対象のことを「色」といいます)。

2・眼と見る対象(色)があれば、ごく自然な認識(識)が生まれるます。

3・この、眼と色と識の三つ合わさった状態を触と言います。

4・この触によって感受(受)が生じます。(ここで既に「好き」、「嫌い」、「どうでもいい」という感受が自動的に生れてしまいます)

5・この受から所縁を人は自分の知り得る物、概念で構成された物に想念してしまいます。

6・この想念を拡大して、あれやこれやと妄想しだして止まらなくなります。

 これらが眼に見える度、耳に聞こえる度に一瞬にして進行しますが、集中して、気をつけて、がんばって4から5の段階で確認作業を行い、6に進むのを極力避け続けていると、妄想に浸り続けることが無くなる為、我が身に起こっている事実の世界に居続けることが出来、結果として事実が解かる。といった仕組みです。

 冒頭の言葉は、やっぱり修行しなければ納得いくものではないでしょうが、割と早く「あっ、本当だ。」と判る瞬間が来ますよ。きっと