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常足庵備忘録

曹洞宗常足庵住職の備忘録です

私が無くとも歩いとるだろに?はオートパイロットの事じゃないよ

 前回の、私という我を意識しなくても歩いたり食べたりしてるじゃないか?という禅僧の言葉はオートパーロットと間違えて理解してしまう恐れがあります。

 頭で理解したり、経験の浅い坐禅なんかで心の端を垣間見たときなど、この傾向があるようです。

 オートパイロットは自動車を運転したり、本の文字を読んだり、ご飯を食べたり、身体を洗ったり、とても便利です、これなくして忙しい社会生活は無理です(笑)。

 たとえば、原子力設備の起動や運転など、マニュアル通りに進めなければいけない操作でもオートパイロットではダメなんです、1ステップ毎に身口意を使って自分のオートを切り続けて進めていくのです、「指差し呼称」「自問自答」がそれです。

 

 ある日、緊張の作業でオートを解除し続けた私は、慣れた気楽なルーティン業務に戻った後、坐禅瞑想の客観的視点で、自分が自動操縦で動いている事を観察していたのです。

 「おー、歩いてる、階段を上がっている、ドアを開けている、計器を見ている、モータの振動を聞いている」。という具合に。

 面白かったです、お昼まで、会話や放送するとき以外は、オートの観察を楽しんでました。

 こうも思いました「これが、私をたてなくても勝手に活動する自己というものか?」。

 しかし、これはやっと、通常の行動に気が付いただけなんです。日常がオートパイロットの私というだけです。

 前回のお話の「私が無くとも歩いとるだろうに?」という禅僧の言葉とは意味が違います、無我の実感とオートパイロットの実感は別物です。

 オートパイロットの実感は前述のようなものですが、無我は瞑想・坐禅で得られる智慧です。

 例えば、集中する対象の感覚と集中する心の二つしか心の中に存在しないとき、集中する対象の感覚が消えたら、心はその集中していた対象を「無い」としか知り得ないのです。

 つまり、集中している対象とそれに集中している心の二つのものは、別の物だと知るのです。

 心の掴んでいる私が有るという想いは、その対象であるこの身体から得られる感覚、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、頭に浮かぶ様々な考え、感情、といったものとは別である。と知るのです。

 これが、無我の第一歩です。