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常足庵備忘録

曹洞宗常足庵住職の備忘録です

仏教って、善もなく悪もなし?

善も無く悪も無し?

 「善悪を論ずることなかれ」、「不思善不思悪」、あげくには「善も無く悪も無し」、等と禅僧は言いますね。

 しかし、仏教の要点に「全ての悪を成さず、善に到りなさい」と。

 私は坐禅と仏教を始めたばかりのときに、矛盾にも思えるこの言葉に困りました(笑)。

 

 この禅僧の言う「善も無く悪も無し」とは、まず「自我から判断する価値感の基準はどこにある?」ということです、大小・長短・損得といった比較の問題ですね。

 次には「物事を無意識に分け隔てて見てしまう」ということです、自他・白黒・裏表・明暗・といった二元対立の問題です。

 もう1つは「禅定状態の感覚」で、思考を拡大せず、現象そのものを見続けている時には善悪に発展しないということです、「明るい時は明るいだけで暗いときは暗いだけです」。

 

では、仏教の要点、「全ての悪を成さず、善に到りなさい」とは、いかにも道徳的な言葉ですね、その「善悪」とは?。

 ずばり、生じる心のことです。

心はコップの中の水に例えられます、そこに色々な感覚や感情の芽みたいな心の絵の具(心所と言ってます)が溶け込んで想い・思考・感情が発生すると仏教では説明します。

貪りの絵の具が溶け込んだら欲しいという心になり盗みを働くかもしれません。

怒りの絵の具が溶け込んだら逃げ出すか殴ってしまうかもしれません。

無知の絵の具が溶け込んだら興奮を善い事だと思ったり、皆がやってるから好い事だと判断するかも知れません。

逆に、慈しみの絵の具が溶け込んだら優しい気持ちにになって人を助けるかもしれません。

このように、全ての生き物に、明るい気持ちになる・気持ちが軽くなる・優しい気持ちになる・生きるのに役に立つ心をまとめて「善」に分類しています。

また、ずべての生き物に、暗い気持ちになる・気持ちが重くなる・ザラザラした気持ちになる・生きるのに役に立たない心をまとめて「不善」に分類しています。

しかし、「俺は興奮してる時や、酒で気持ちよくなっている時が幸せだし、欲しい物を手に入れ、気に入らない奴がいやな目にあったり、好ましい人たちから羨ましがられたり、蔑んでいる奴らから恐れられていることが快感なんだ」という極当たり前の思考が走りますよね(私だけ?)、これは心転倒といって、無知から来るものだからはっきり間違っている感覚なんです。

 中には、無知以前の影響で、臭い物を好い匂いと好んだりする、どうしようもない(笑)基本設定も備わっているようですが・・・。

結論:仏教では世俗を超えた世界でも、心の問題として善悪の心は分けています。