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常足庵備忘録

曹洞宗常足庵住職の備忘録です

好い感じのする物、嫌な感じのする物ってありますよね?

好い感じのする物、嫌な感じのする物ってありますよね?

等といったらお坊さんに怒られそう・・・

なんだか仏教では、好いも悪いもあなたの妄想で、事実好い物、悪いものがあるわけじゃない。

あなたの受け取り方でしょう、ありのままに御覧なさいよ、実際あなたが嫌でも他のものには好きな者もいれば、気にならない者だっているでしょ。

なんて、説教されそうです。

では、どうなんでしょうか?

心は一瞬一瞬変化しています、その一瞬の中でも始まりと終わりがあります。

例えば、眼に何か物が見えればそれを感受します、これが始まりです、そのときに、好き、嫌い、気にならない等と極自然に受け取るのです。

この何か見えたもの、を所縁といいます、そしてこの所縁には好い所縁と好くない所縁と分けて説明されるのです。

少なくともアビダンマでは分けて説明します、それは自身の行いが自身にどう影響を与えるのかという、自身の中で完結される楽と苦、善と悪を観察・修習するために不可欠なものだからだと私は判断してます。

では、好い所縁、好くない所縁とはどう説明されているでしょうか。 

・境遇による良し悪し:王様には好くない食べ物でも乞食には好い食べ物の場合があるので中間層を基準に定めた好いもの好くないもの。

・心による受け取り方:仏像のように本来好いものなのに、見解が転倒しているので怒りが出るケース、また、豚をベットに寝かせようとしても嫌がって泣いて逃げようとするのはベットは好いものであるが豚に生まれたせいで好くないものと思ってしまう。

・時と場合による:宝石は見る分にはいいが、それで頭を叩かれる場合は嫌なものである。

・普通の境遇、普通の受け止める心、普通の時と場合を考えても好いものといえるものでも、狂った妄想状態では全く逆の受け止め方をしてしまう。

そうです、好いもの悪いものがあるわけでは無く、人が生きて行く上で、社会的、理性的、道徳的に好い感受を与えるものと好くない感受を与えるものに分ける必要があるということです。

好いもの、好くないものを分けないと、善悪も無しなんて事になりかねないです。

味噌も糞もみたいな結末でしてが悪しからず。