常足庵備忘録

注:メモ書き程度なのでくれぐれも参考になさらぬよう

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫)第一部

・ 1 ダルマの小伝

 法師は西の方、南インドの生れで、大バラモンの第三王子であった。云々。

・ 2 実際のところ、仏道に入る方法といっても結局この二つに尽きる。

 仏道に入るといっても結局二通りに過ぎないのだよ。

 一つは原理的に仏道に入るということ、二つ目は生き方が仏道であるということだ。

 原理的に仏道に入るということは、

 まず、仏教の大まかな根本の所を理解し、今は妄想に覆われて真実が見えずに居る事を信じること。

 そして、妄想を捨てて坐禅し、何の隔てのない所から離れず、更に文字・教義に無関心でいればありのままに、分別なく、心静かに、あれが有るこれが有るという思いが生まれない事を云うのだよ。

 生き方が仏道であるということは、

 一つは、今の苦しみは過去に自ら蒔いた種によるものだから堪忍すること。

 二つには、今の苦しみも楽しみも過去の因縁から生まれたものだから、一喜一憂する必要はないということ。

 三つには、皆な常に迷ってあれやこれやと貪著している事が「求める」ということで、経には「求める事があるから苦しみがある、求める事をやめれば楽というものだ」とある、求めない事は仏道を行うことだよ。

 四つには、清浄道というのが法の名だから、物惜しみせずに助け合いなさい、これは実のところ自分の為であり、またそのまま他の為でも有る、そして悟りの道を助けることになる。

・ 3 仲間の手紙その一

 もし仏教に向かいありのままに心を任せれば清らかになるのだけど、ちょっとでも心に立ち上がるところがあれば、もう生滅の世界になる。

 ありのままのこの世界で妄想する事は邪な生き方をするだけだし、法を求めようとあれこれ考えても、悟る縁となる因果関係にはこれっぽちも足しにならない。

・ 4 仲間の手紙その二

 そもそも、影は形があって出来る物だし、響きは音があって起きる。

 当たり前のようだけどそれを知らないのか、実際のところ、煩悩を捨てて涅槃を求めるのは形を無くして影を求めるようなもので、自分を離れて仏を求めるのは黙って音を立てずに響きを探すようなもの。

 だから迷いも悟りも一途で愚痴も別のものではない、もともと名前のないところに名前をつけて、其の名前に拘って有るとか無いとか、正しいとか誤りであるとか、幻は真実ではないだろ。

 結局、言い争ったところで、得たといっても実は何も得ていない、失ったといっても実は何も失ってはいないということ。ではあしからず。

・ 5 諸仏が「空」を説くのは何故かと言うと

 諸仏が「空」を説くのは諸々の見解を捨てさせるためで、それなのに「空」に執着してしまったら諸仏もお手上げだよ。

 生まれる時は因果関係が生まれたということ、滅する時は因果関係が滅したということ、一つの法が生まれたとか、滅したとかいうものではない。

 一切の法は貪欲のために起きる、分別は空しいのに凡夫はそのために焼かれてしまう。

・ 6 般若の理論を言ってみた

 法としての仏には形も声もないので見解や分別といった見方で見るこはできないし、仏の智慧も見解や分別をもって知る事は出来ない。

 見解・分別といった見方で見ても見えないものがたくさん有るし、見解・分別といった考え方で知ったと思っても知らない事だらけだ。

 つまり、見解・分別の無い見方でみれば見えないものは無いし、見解・分別を超えた智慧で知れば知らないところは無い。

 もし、何かを得ようとすれば得られないものがほとんどだし、得ようというのでなければ得られないものは無い。

 もし、何かを正しいとすれば正しくないものがほとんどだし、正しいという考えが無ければ正しくないものはない。

 例えば、「柱」を見て「柱であると想う」のは、「柱という姿」を見て「柱と想う」だけのことであって、自分の心が「柱である」と認識しただけだと観れば、実際に「柱の姿」というものは無い。

 このようにすれば「柱」を見て「柱という法の原理」を得ることが出来る。

 これは一切の物体を見る時もおなじ。

・ 7 虚無主義を批判してみた

 有る人は「一切の法は存在しない」いうが、じゃあ言わせてもらえば「君は存在の本当のところを見るのか?存在を存在としないが、存在で無いものを存在としているだろう、それも君のいう存在じゃないか」。

 有る人は「一切の法は生じない」というが、じゃあ言うけど「君は生じるということの本当のところを知っているのか?生じるものを生じるものとしないが、生じないものを生じるものとしているだろう、それが君の生じるものだよ」。

 有る人は「私は一切の事象を見ても無心だ」というが、いやそれは「君は心を見たことがあるのかな?心を心としていないようだが、無心と想っている心を心としてるね」

・ 8 三蔵法師(達磨)のことば

 悟っていないときは、人が法を追い求めるが、悟る時は法が人を追いかけて来る。

 悟る時は認識が姿かたちを支配するが、迷いの世界に在る時は姿かたちが人を支配する。

 姿かたちによって認識が固まらないのを、物について見解を起こさないという。

 また「ものを求めない」と言う人も、求めない事を求めているし、「ものに執着しない」と言う人も、また、執着しない事に執着しているものだよ。

・ 9 仏心とは何ですか?

 心が真実と異なった形を持たないことを「真如」という。

 心は縁に随って移り変る、変えようとしないことを「法性」という。

 心が何物にも支配されないことを「解脱」という。

 心そのものが何物にもさまたげの無いことを「菩提」という。

 心そのものが静かに落ち着いていることを「涅槃」という。

・10 三宝とはなんですか?

 如来とは?

 ありのままに悟って世間に応じる、これを如来という。

 仏とは?

 ありのままに悟って居ながら、悟りの世界にもとらわれない、これを仏という。

 法とは?

 心は法の如く生じず、心は法の如く滅せず、これを法という。

 僧とは?

 法の如く和合するがゆえに僧という。