常足庵備忘録

注:メモ書き程度なのでくれぐれも参考になさらぬよう

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第三部

・21 常規を超えた世界

問:規格の外とは何の事ですか?

答:理解や、求道心や、仏の智恵を求めず、禅定の優れたものを尊敬せず、欲にまみれた者を蔑まないこと、そうすれば常に落ち着いていられる。

問:どうすればその規格の外で生きることが出来るのでしょう?

答:規格というのは仁義礼知信や生死涅槃といった心の事だから、そういった理解を作らず、迷いもわざわざ起こさないこと、だいたい有名人がすごい事を言うからと皆集まるが、そもそも心の事実の在り方に言葉や説明が要るのかどうか自分で観察することだね。

・22 淳朴な心

問:純朴な心と巧偽の心を説明してください?

答:文字や言説を巧偽というんだよ、物質や物質で無い物、歩いたり立ったり、座ったり寝たり、することなすこと、皆これ純朴だよ、どのような苦楽に遭遇しても動揺しないならばそれが純朴の心と言えるね。

・23 正しい心・邪な心

問:何が正しくて、何が邪なんですか?

答:分別する心が無い事を正というし、物事を理解したというのは邪だね。

  まあ、邪とか正とか思わないから正なんだがね。

・24 根性の利鈍

問:どういう者を利根や鈍根というのですか?

答:先生の教えるところに頼らないで、事実の中に法を観察する者を利根の者というし、

理解を求めて、義理や是非といった見解に囚われるものを鈍根の者というのだよ。

・25 学問しても道を得ぬのは

問:世間の人は色々学問に励んでいるのに、何故、道を得ることが出来ないのでしょうか?

答:そりゃ、自分に囚われているからだよ。

だいたい、聖人というものは苦に逢って愁いたり、楽に逢って喜んだりしないのだが、自分に囚われている者は、自分の計らいをもって生老病死・憂悲苦悩・寒熱風雨などという意に沿わない事を感じている、妄想が現象を作ってるというだけなんだがね。

・26 空の真理と修道の主体

問:あらゆるものが空であるというのなら、いったい誰が道を修めるのでしょうか?

答:その「誰か」があるんなら道を修めなきゃならんだろうが、「誰か」がいなければまったく道を修める必要など無いな。

その「誰か」というのは我でしょ、そもそも我が無ければ物について是非は起こらない。

自分で是非としているだけで、物には是も非も無い。風や雨の自然現象、青黄赤白の色彩なんかいい例だろ。

好い物といっても、自分で勝手に好い物としているだけで物が好いのではないでしょ、

眼耳鼻舌の感覚や眼で見えるもの耳で聞こえる音などいい例なんだがね。

・27 道でないところに行く

問:経に「道でないところを行って仏道を極める」とありますが?

答:「道でないところ」とは、貪りを捨てず、愛を捨てない生き方であって、

「極める」とは、貪りに対しても貪りなく、愛に対して愛がないことだよ。

そして「道でないところを行く」とは苦に逢っても苦がなく、楽に逢っても楽がないことを「極める」とするのであって、生を捨てず、死を捨てないことを「極める」という。

「道でないところを行く」とは生に在っても生が無く、生が無いことにも捉われず、我に対しても我が無く、我が無いことにも捉われない、これを仏道を極めたとするのであって。

もし、非に逢っても非無く、非で無いことにも捉われない、これが仏道を極めたという事なのだよ。

・28 一切の存在をきわめる

問:一切の存在を極めたとはどういうことでしょうか?

答:物に対して見解を起こさないのが極めるということであって、

物に対して貪りが起きず、物に対して悩みが起きない事を極めたというのだよ。

・29 邪険を捨てて正見に入るのではない

問:経に「外道は諸々の見解を楽しむが菩薩は見解を働かせない、天魔は生死を楽しむが菩薩は生死を捨てない」とありますが?

答:誤った見解も正しい見解も同じだから、見解を働かさないのだよ。

働かせないとは正を離れず、邪にも離れないことで、実際、邪も正も無いから邪を離れて正を求める事をしないのだ。

また、生死は涅槃と同じだから捨てないのだよ。

たとえば水を捨てて湿り気を求めたり、火を捨てて熱を得ようとしてもだめだろ?

水が即ち湿、火が即ち熱であることと同じで、生死の性はそのまま涅槃だからだよ。

・30 究極の真理は近いか遠いか

問:究極の真理は近いのですか?それとも遠いものでしょうか?

答:たとえば、陽炎が近いとか遠いとかでなく、また鏡に写る顔が近いとか遠いとかいうものでない事と同じなんだけどね。

だいいち姿かたちの在る物はみな現象なんだが、深く現象の本質を観察して事実に誤らないことを真理を見た人と呼び、存在のあり方を見た人といえる。

実際、近くにありながら見ることが出来ないものが存在のあり方なんだ。

智者は物に任せて我に任せないので、取捨分別が無く、対立も生じない。

愚者は我に任せて者に任せないので、取捨分別が有り、対立が生じる。

物が来ようとする時には物に任せて逆らわず、去っていこうとする時はこれを放って追ったりしない。

過ぎた事は後悔せず、まだ起こってもいない事を焦って考えない。これが仏道を行く人だよ。

・31 究極の真理はわかりやすい

問い:なぜ、究極の真理はきわめて解りやすく実践しやすいのに、世間の人は知る事が出来ず行うことが出来ないというのですか?

答:もっともな事だ、心を高く保って世間のことは放任して、何も作さないことを仏道を行くと言い、何一つも見ないことを仏道を見ると言い、何一つ知らないのを仏道を修めると言い、何一つ実践しないことを仏道を行うと言う、またわかりやすいと言い、また実践しやすいとも言うのだよ。