常足庵備忘録

注:メモ書き程度なのでくれぐれも参考になさらぬよう

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第四部

・32 老子のことば

問:老経に「終わりを慎むこと始めの如くすれば、必ず事を敗る無し」とありますがどういうことでしょうか?

答:これは信義のある者が一度発心すれば今も昔も心が衰えたり見失ったりしないことを言ったものだ。

このように始めも今も道心が変わらない人を仏法に信の有る人というのだよ。

・33 菩薩の生活

問:菩薩の行とは何ですか?

答:賢者や聖者の行でなく、凡夫の行でもない、それが菩薩の行だよ。

菩薩はあらゆる処が仏法の処であると観察しているから、あらゆる処を嫌わず、あらゆる処に執着せず、あらゆる処を選り好みせずにすべて仏事としているのだ。

問:あらゆる存在は無だというのに、どうやって仏事が出来るのですか?

答:「何かを行うという所や者」が「何かを行うという事」ではない。

「何かを行う存在のあり方」という物が無ければ、善い処にも悪い処にもありのままに仏を見るのだよ。

・34 仏と亡霊

問:どのように仏を見るのですか?

答:欲の心がおきれば、欲の姿を見るのではなく、欲という理法を観るのだ。

苦しみがおきれば、苦しい姿を見るのではなく、苦しみという理法を観る、夢の姿を見ずに、夢という理法を観るのだよ。

これをあらゆる処に「仏を観る」というんだ。

これと反対にもし、現象の姿ばかり見ていることを、あらゆる処に「鬼を見ている」というのだよ。

・35 理法の世界

問:理法の世界は何処に現れているのでしょうか?

答:あらゆる場所がみな理法の現れている世界だよ。

問:理法の世界で戒を保つだとか破るだとかは有るのでしょうか?

答:理法の世界には凡夫聖人・天堂地獄・是非苦楽などいったものは常に虚空のような実体のないものだよ。

・36 悟りの場所

問:どこが悟りの場所ですか?

答:歩いているところが悟りの処、寝ている処が悟りの処、座っている処が悟りの処、立っている処が悟りの処、足を上げる下げる、みな悟りの処なんだよ。

・37 諸仏の境地

問:諸仏の境地を教えてください。

答:存在の法は有るでも無しないでも無し、有るともせず無いともしない者を仏の境地という。

仏の心は有るという立場で知ることが出来ない、仏の身は眼に見える姿で観る事は出来ない、一般的な理解は妄想分別に過ぎないのだよ。

たとえ君が色々な見解をしたところで、全部自分で計ったり組み立てたりした妄想概念だからな。

諸仏の智慧は人に説明する事が出来ないし、誤魔化して隠す事も出来ない、また禅定の感覚で想い量ってもだめだ、理解を超え、知識を超えた処を諸仏の境界とするんだよ。

・38 智恵の日が地中に沈没するのは

問:「如来の智慧の日が有という地に潜ってしまう」とはどういうことでしょうか?

答:有でないものを有と見れば、せっかくの如来の智慧も地に潜ってしまうだろう。

姿形のないものに姿形を見ることも同じだな。

・39 不動のすがた

問:どういうのを「不動の姿」と言いますか?

答:「有」という存在の固定をしなければ、動く存在は無く、「無」という非存在の固定をしなければ、動く非存在は無い。

心そのものが無心ならば、心の動きは無く、姿形そのものが「相」という固定されたもので無ければ、姿形のというものの動きようは無い、これを不動の姿だ、と。

もし、このように理解している者は、自ら騙し迷わせる者と言えるね。

このようなものは未だ悟って無い、本当に悟るときは解釈できる法など出てこないものだ。

・40 生滅と不生滅と

問:実際に生滅を見ているのに何故生滅無しと言うのですか?

答:縁に依って生じたものは生じたとは言わないのだよ、縁に依って生じたにすぎない、縁に依って滅するものは、自分から滅したのではない、縁に依って滅しただけだ。