常足庵備忘録

注:メモ書き程度なのでくれぐれも参考になさらぬよう

達磨・ダルマ・だるま語録の感想文なので、あしからず。(柳田聖山著「ダルマ」筑摩書房・「達磨の語録」講談社学術文庫) 第七部

・61 地獄にゆくもの

僧:私は地獄を怖れて懺悔修道しています。

恵:君いう我は何処に在って、どのような物なんだね?

僧:我の所在は知りませんが。

恵:我すら所在が解らないくせに誰が地獄に堕ちるんだ?どのようなものかも知らないなら、妄想して有ると考えているだけだろ、そういった妄想で有ると思っているから地獄があるんだ。

・62 石をきざんで仏を作れば

僧:道が皆な妄想のなせるものなら、妄想が作るものとはなんですか?

恵:法に大小、形相、高下は無い。

例えば庭に大石があって登ったり座ったりするのになんの恐れもないが、一度発心して仏像を描いてしまったら、罪を怖れてもう登ったり出来ないだろ?君の心が是とするだけだ。

石や絵の具に罪や福は無い。みな君の心が意識の筆を持って分別して是れとしているだけだ、悉く君の妄想だ。

・63 四種の説法

僧:仏はどれほどの種類の説法をなさったのですか?

恵:法身仏はずばり虚無の真理を説き、報身仏は全て妄想で実体が無い事を説き、智恵仏は知覚の離れた真理を説き、応化仏は波羅蜜を説いた。

・64 楞伽師の教え

問:心は過去未来の事に縛られています、どうすればこれを止めれるでしょうか?

楞:心が生じても不生不滅です。なぜならば、心が生じるといっても東西南北いずれかから来るわけでもなく、もとより来る処が無ければこれは不生であるし、すなわち不滅である。

・65 業は断じようがない

問:心が繋がれて業となるならどうやって断つことが出来ますか?

答:もとから心は無いものだから、断つ事はできないだろ?この心は生じる処も無いし、滅する処も無い。妄想で生じた法だからね。

経には「業の罪は何処から来るのでもない、ただ転倒した心から生じる」とあるが疑ってはだめだ。

・66 顕禅師の教え

問:薬とはなんですか?

顕:大乗の教えは全て病気の為にある、心が病気で無かったらどうして薬が要るだろう。有という病気の為に空という薬を説き、我という病気の為に無我の薬を説き、生滅には無生滅を、愚には智恵を、邪には正見を、迷いには悟りを説くのであって、病気でなければ薬は必要で無い。

・67 喧禅師の教え

問:道の体とはなんですか?

喧:心が道の主体だよ。これは実体は無いが主体であって、有でも無でもない。

なぜかと言うと心は無性だから有でないし、縁で生じるから無でもない、形相が無いから有でないし、動いて止むものでも無いから無でもない。

・68 淵禅師の教え

一切の存在が空であると知れば、知るものも知られるものも空である。知るところの智恵も空であり、知られるものの存在の法も空である。

・69 蔵法師のことば

一切の法に得るところが無い者はこれを修道の人と名づける。なぜならば、経典には「心が何も得ない時、仏は悟りを保障する」また「一切の法は得ることが出来ない、得ることが出来ないということも、また得ることが出来ない」とある。

・70 賢禅師のことば

眼の見るところが実際であり、一切の法は皆これ実際である、さらに何をもとめようとするのか。

・71 安禅師のことば

素直な心が道である。なぜならば、素直に考え、素直に行動する人は空を観察しない。

経には「直視は見ず、直聞は聴かず、直念は思わず、直受は行ぜず、直説は煩わしくない」と。

・72 燐禅師のことば

存在には実体が無いのだからありのままに行動して惑ってはいけない。

経にいう「もとより無心なるがゆえに、ありのままの心なるがゆえに無である」と。

・73 洪禅師のことば

あらゆる行動はみなありのままである。色を見、声を聞くもありのままである。一切の法もまたありのままである。

経にいう「衆生もありのまま、賢聖もまたありのまま、一切の法もまたありのままなり」と。

・74 覚禅師のことば

もし心が何処にも属さないのを悟れば、すなわち道を得たといえる。なぜならば、眼が一切の色を見て、眼が一切の色に属さないのは本質的な開放であるし、耳が一切の法を聞いて、耳の一切の声に属さないのは本質的な開放である。

二十世紀発見の敦煌本はここで終筆していて、最後に写字生の戯言が書いてあるそうです、なかなか面白いので最後の締めにどうぞ。

書を写して今日おわる

何によってか銭を送らざる

誰か家の無頼漢ぞ

面を廻して、相看せざる