常足庵備忘録

注:メモ書き程度なのでくれぐれも参考になさらぬよう

Mahā purisa vitakka(偉大なる人の思考)と遺教経・八大人覚を並べて見ると・・・

 曹洞宗では枕経に読む「遺教経」(仏垂般涅槃略説教戒経)というお経があり、(お釈迦様が亡くなる直前に教えを説いた場面の設定だといいます)このお経の後半部分には8項目の仏弟子の法が説かれています。

 また、道元禅師の正法眼蔵最後の巻である「八大人覚」には「遺教経」のその8項目が説かれています、八大人覚とは「覚りを得た大人(諸仏は是大人なり)の八つの事柄」です。

 そして、 パーリー仏典の増支部経典にアヌルッダ経がありその中に「大い(偉大)なる人の思考」があります。

 このお経はアヌルッダ阿羅漢が自分の思うところを仏陀に確認した事柄がその基になっているそうです。

 小欲ひとつとっても我々俗世間の価値観とは違って深いものです、その解説は日本テーラワーダ仏教協会施本『偉大なる人の思考 Mahā purisa vitakka』でご覧ください。

『偉大なる人の思考 Mahā purisa vitakka』

 ではそれぞれ並べてみます。

 これはもう、お通夜の枕経だけでは勿体無い、自らに言い聞かせるべき要点ですね、ということで私は毎朝両方読んでいます。

 なんだか毎朝自分のお通夜みたいな感じですが(笑)。

Mahā purisa vitakka

大いなる人の思考

1.

Appicchassāyaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo mahicchassa;

この法は小欲の人の法であり、多欲の人の法ではない。

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、まさに知るべし、多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩もまた多し。小欲の人は無求無欲なれば、即ち此の患い無し、直ちに小欲すら尚おまさに修習すべし、いかに況や、小欲のよく諸々の功徳を生じるをや。小欲の人はすなわち諂曲して以て人の心を求むること無し、また諸根の為に牽かれず、小欲を行ずる者は、心すなわち坦然として憂畏するところ無し。事に触れて余りあり、常に足らざること無し。少欲ある者はすなわち涅槃あり、これを少欲と名づく。

2.

Santuṭṭhassāyaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo asantuṭṭassa;

この法は知足の人の法であり、不知足の人の法ではない。

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法はすなわちこれ富楽安穏のところなり。知足の人は地上に臥すといえども、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すといえどもまた心にかなわず。不知足の者は富めりといえども、しかも貧しし。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。不知足の者は常に五欲のために牽かれて、知足の者のために憐みんせらる、これを知足と名づく。

3.

Pavivittassāyaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo saṅgaṇikāramassa;

この法は遠離した人の法であり、衆に交わり喜ぶ人の法ではない。

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、寂静無為の安楽を求めんと欲せば、当に憒閙を離れて独所に閑居すべし。静所の人は、帝釈諸天の共に敬重する所なり。是故に当に己衆他衆を捨てて、空閑に独所して、滅苦の本を思うべし。若し衆を楽う者は即ち衆悩を受く、譬えば大樹の衆鳥之れに集まれば、則ち枯折の患あるが如し。世間の縛著は衆苦に没す。譬えば老象の泥に溺れて、自ら出づること能わざるが如し。是を遠離と名づく。

4.

Āraddhavīriyassāyaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo kusītassa;

この法は精進に励む人の法であり、怠惰な人の法ではない。

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、若し勤めて精進すれば、すなわち事として難き者なし。この故に汝等まさに勤めて精進すべし。たとえば小水の常に流れて、すなわちよく石を穿つが如し。若し行者の心しばしば懈廃すれば、たとえば火をきるに未だ熱からづしてしかもやめば、火を得んと欲すといえども、火を得べきこと難しが如し。これを精進と名づく。

5.

Upaṭṭhitasatissāyaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo muṭṭhassatissa;

この法は念を絶やさない人の法であり、念を失する人の法ではない。   念:気づき

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、善知識を求め善護助を求むることは、不妄念に如くはなし。若し不妄念ある者は、諸の煩悩の賊、則ち入ること能わず。是故に汝等常に当に念を摂めて心に在くべし。若し念を失する者は則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば、五欲の賊の中に入ると雖も、為に害さられず。譬えば鎧を着て陣に入れば、則ち畏るる所なきが如し。是を不妄念と名づく。

6.                         

Samāhitassāyaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo asamāhitassa;

この法は定に入る人の法であり、定に入らない人の法ではない。     定:心の統一

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、若し念を摂むる者は心則ち定に在り。心定に在るが故に能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等常に当に精進して、諸の定を修習すべし。若し定を得る者は心則ち散ぜず。譬えば水を惜める家の、善く堤塘を治するが如し。行者も亦た爾なり、智慧の水の故に、善く禅定を修して漏失せざらしむ。是を名づけて定となす。

7.

Paññāvato ayaṃ dhammo, nāyaṃ dhammo duppaññassa;

この法は智慧のある人の法であり、無知な人の法ではない。

[遺教経・八大人覚]

汝等比丘、若し智慧あれば則ち貪著なし。常に自ら省察して失あらしめざれ。是れ則ち我が法中に於て能く解脱を得。若し爾らざる者は、既に道人に非ず、又た白衣に非ず、名づくる所なし。実智慧の者は、則ち是れ老病死海を渡る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒闇の大明灯なり、一切病者の良薬なり、煩悩の樹を伐るの利斧なり、是故に汝等、当に聞思修の慧を以って、而も自ら増益すべし。若し人、智慧の照あれば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明見の人なり。是を智慧と名づく。

8.

Nippapañcārāmassāyaṃ dhammo nippapañcaratino;

Nāyaṃ dhammo papañcārāmassa papañcaratino'ti.

この法は不戯論(妄想しない事)を喜ぶ、不戯論(妄想しない事)を楽しむ人の法であり、

戯論(妄想する事)を喜ぶ、戯論(妄想する事)を楽しむ人の法ではない。 

                           戯論:妄想、有為、捏造

[遺教経・八大人覚]                  

汝等比丘、若し種種の戯論は、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も、猶お未だ得脱せず。是故に比丘当に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に善く戯論の患を滅すべし。是を不戯論と名づく。