読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

常足庵備忘録

曹洞宗常足庵住職の備忘録です

正法眼蔵 生死

正法眼蔵生死は、いつも曹洞宗専門僧堂『御誕生寺』の日曜参禅会で坐禅の最後に読んでいました。禅師様のチョイスですね。

禅僧というのは正月に遺偈を書く習わしだそうですが、まあ下手に語をひねくり回すより道元禅師のお言葉を噛締める方が良かろうかと思い挙げてみました。

正しい意図や意味を理解することができなくても、なにか心に浮かび上がるものがあればそれはそれでよいのではないか思います。

そうすれば正しい意味に囚われることなく、読むたびに一期一会の心が生まれることがわかりますので、つまるところ今の自分に親しくなることに繋がると思います。

正法眼蔵 生死

生死の中に佛あれば、生死なし。またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。

こころは夾山定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり、得道の 人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。

生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨むねをあきらむべし。

もし人生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし、いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなヘり。

ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死として いとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし、このとき、はじめて生死をはなるる分あり。

生より死にうつると こころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かるがゆへに、佛法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。生というときには生よりほかにものなく、滅といふときは滅のほかにものなし、かるがゆへに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひて、つかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。この生死は、すなはち佛の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。

これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなふなり、佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したふことなき、このとき、はじめて佛のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ、ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをも、つひやさずして、生死をはなれ佛となる、たれの人かこころにとどこほるべき。

 佛となるにいとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなくうれふることなき、これを佛となづく、またほかにたづぬることなかれ。

正法眼藏生死 年號不記